歌集「白桃」は、斎藤茂吉の第五歌集である。
昭和8年から9年にかけて詠まれた1017首が収められている。茂吉52歳、53歳に当たる。 年ごろがおよそ似通って居るゆえに、ある種親近感をもって、今回再び読んでみたのであった。 1017首という大部の歌集である。えんえんと写生の歌がつづく。記録としてとどめておく歌というほどのものも多い。さらっと読むほかない歌も多い。つまり、取り上げて読後感を表現したいと思わせる歌は限られている、というのが正直な印象である。それはなぜであろうか? 私には、作品に内在する「吾」「わたし」のありかたと深くかかわっているように思われる。 例えばこんな作品がある。 とことはの力を秘めてかぎろひの立ちたる海に波しづまりぬ 格調高い歌。しかし、わたしには結句の「波しづまりぬ」と言っている作者の客観的な意識が、けっきょくはのんびりしていると感じられてしまう。写生歌と言えども、作者の新鮮な意識、生きている証明としての意識がそこに詠われていないと、わたしにはもはや感動のある歌とは思えない。つまり、自我意識がのんびりしている歌、そんなふうに感じられ物足りないのである。 言葉としてみると、非の打ち所のない歌であってもである。 ただこれだけの数の歌がありながら、駄作がない。下手な歌がない。それは、言葉がとことん吟味されているゆえであり、茂吉の天才的な言葉に対する感覚のゆえであろう。驚くべきことであって、わたしには奇跡のようなものだ。どんなに歌の数が多かろうと、茂吉は自信を持って提出しているのであろうし、その雰囲気がある。 面白い歌、見所のある歌について、茂吉自身が巻末の後記で記している。 「漫然と気づいたものにこのやうな歌もあり、従来の歌に比して幾らか注意せらるべきものともおもふが、併しこれとても時がもつと経つて見なければならない。」 そう書いて、茂吉自身が後記に掲載した歌が10首ある。それらは、私自身も読みながら注意した歌であり、またその多くは土屋文明編「斎藤茂吉短歌合評」に取り上げられている歌でもあった。 民族のエミグラチオはいにしへも国のさかひをつひに越えにき 延々と続く自然詠、写生の歌のなかで、この歌は独特の光を放っている。エミグラチオ、すなわちイミグレイション、移民である。時代は満州問題を白眉とする世相であった。
by Achitetsu
| 2007-10-24 07:32
| 歌集評
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