短歌とライブ3


現代の日本人が「短歌ライブ」という名目を見たとき、どんな気持ちになるか? ライブを開くに当り、それがぼくらの第一のチャレンジであり、楽しみでもあった。

何かしら感懐を持つだろうが、はっきりとイメージを持つ人なんかは居るはずがない。そう予想が立つ。おそらく、見当もつかない。それにも関わらず、そもそもライブに来てくれるものだろうか? そんな不安を抱きながら、リハーサルを積んだのであった。ジャンルの違う3人のメンバー。そこで力学が働いた。

聴衆を惹きつけるプログラム、厭きさせないプログラム、裏切らないプログラム、そういう意識が演者には働く。音楽が趣向をこらし、変化の波を入れ込み、ピークを考えて構成を組む。

短歌をリハーサルで読みながら、一気に読み下すのではなく、韻律を元に演劇のように間を取ること、それが自然に導入された。

そもそも短歌には五七五七七の31音のなかに、しばしば切れというものがあり、加えて休止というものもあり、それが読みに韻律を与えている。例をあげてみよう。

 予てから願ひつることとろとろと夢のなかにて死んでゆくこと
                       知哲
例えば、この歌を口語のように一気に読み下してみると、なんとも息苦しく、韻律の妙がなにも発揮されないことが分かる。なぜか? 
中ほどの、とろとろと、で切りというものを入れてみる。切りとは大きな休止と考えてもらえばよい。この場合、文法上は切れてはいないのであるが、大きな休止という意味で切ってみる。
 予てから願ひつることとろとろと 夢のなかにて死んでゆくこと

その上で、今度は小休止を入れてみる。初句の後に。
 予てから 願ひつることとろとろと 夢のなかにて死んでゆくこと

なおその上で、結句の最後ゆくことのあとに、大休止を入れるのが私のライブでの読み方となった。意識的に大休止をいれるのである。それは、誰にもわからないのではなく、誰にも分かってしまうものなのである。
そして、演劇的な読み方と最初に言ったのは、例えば「とろとろと」のあとの大休止は、ゆっくり3呼吸したあとで、おもむろにやや抑えた声で、「夢のなかにて死んでゆくこと」と極めてゆっくり読むことであった。

このように一首一首、韻律の力を最大限に出すことが、つまりわたしのリハーサルであった。ピアノも打楽器も、それぞれが3人3様のチャレンジをした。

ただ、この人間の声による朗読の密度を考えたときに、50首という長丁場は、聴衆にとっていかにも重苦しいのではないかという意見が出た。まさにその通りであろう。その結果、最後の10首はラップで読もうということになった。
最後に軽みを入れて、ライブ終了後に、気持ちを明るく軽く持ってもらう仕掛けとした。

なお、残り40首の密度の濃い時間をどう救済するかに腐心した。途中休憩を入れるとしても、詩を長時間聞き続けることの重さを思い、フリをいれることになった。

 同い年ほどの隣のおじさんが庭でiPod聴ひてるかなり悔しい

例えばこの歌では、歌の途中ごろに、会場の袖から、iPodを手に持って、耳で聞いているおじさんが出てくる仕掛けにした。わたしとおおよそ同年代である必要もあった。袖から急に人が出てきて、音楽にのって身体を揺らしたりしながら、聴衆の前を横切ってくのである。聴衆は最初あっけに取られるのが常であるが、すぐに歌との関連に気づいて、笑い出すのだ。気持ちがほぐれてリラッククスする。じっと緊張して集中するだけではないという、ちょっとしたヒントの提示。笑って和むのである。

このようなフリが随所に挿入されて、ライブの回を重ねるごとに増えていった。特に受けの良いフリは、定番として定着していった。そして、ではいっそ聴衆にも働きかけるフリにしようと生まれたのが、次の歌のフリである。

 ふんはりと天使来たりて各々の肩にちひさく触れて行きたり

この歌の前には演者から聴衆に向かって、「次の歌は目を閉じてお聞きください。」と予告がなされる。わたしが歌を読み始めると、メンバーの作った天使棒という、綿を先端に付けた棒を持って、静かにメンバーが、あるときは決めてあった聴衆の数人が、会場を回って人々の肩に触れて行くのである。まるで、天使が肩に触れて行くように。その間、天使降臨に似合うチャイムが静かに鳴り響くのであった。

初めて肩に何かしらが触れると、聴衆はびくっとするのであるが、数瞬遅れて、歌との関連が意識され、身を任せるように、ほとんどの聴衆が身体の力を抜くのが通例であった。ライブの短歌も音楽も仕掛けも、その場にしつらえられたものを受容しようとする、それぞれの仕方で。

受容といえば、初めてライブに来てくれた聴衆(次第に聴衆というより観客に変わってきたようにも思うけれど)の、受け取り方もみな見事に違う仕方、それぞれの仕方であったように思う。

一人の女性は、ライブの開始後すぐに目を閉じて聞き始め、最後まで目を閉じて聞いていたと言った。一首一首が、美術館の絵を次々に見るように変わっていったというのだ。

ライブには、ワインかソフトドリンクを片手に、という趣向を入れてある。最初のライブでは目を閉じたまま、小さな声を一首一首に出してくれる聴衆が数人居て、それが演者との呼応となって、わたしには大きな励ましであった。不思議なものだ。自分がステージに立って初めて分かることが、さまざまあるのであった。ライブは、聴衆・観客との呼応・相互作用であった。
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by Achitetsu | 2007-10-30 21:22 | 短歌論
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