物そのものを詠う

物そのものを詠う、という魅惑的な言葉を考える。

ただその物を謂うだけでは、小説の1シーンの説明文になってしまうけれど、その物を
読者の心の中で一瞬輝かせる表現があるはずだと思う。そのためには、そこに象徴としてモノそのものに迫る言葉がなければならない。でなければ、「物そのものを詠う」という世界へは近づけない気がする。

では、象徴とはなにか。

  家裏に立てて忘られて梯子あり銀河は一夜その上に輝(て)る
                          高野 公彦 (歌集 汽水の光)

立てられている梯子を詠うのがすごい。高野公彦は、この歌を作ったあと、自身の所属結社のコスモス賞を受賞する。梯子に銀河が来て、梯子というモノは確かに象徴的なナニモノかになった。物そのものを詠って、物が象徴として光っている。

  天泣(てんきふ)のひかる昼すぎ公園にベビーカーひとつありて人ゐず
                          高野 公彦 (歌集 天泣)

ベビーカーそのものをこれだけ詠った歌はほかに見ない。フェリーニやアントニオーニを初めとする、イタリアのヌーベルバーグ以降の監督にこの表現手法をみる。不在、空白、間、飛躍という意識的な観念を映像の世界に持ち込んで表現したのだ。もはや懐かしい話だけれど、有形無形にぼくらは大きな影響を受けている。高野のこの歌もまさにそうだと思う。

  あはあはと陽当る午後の灰皿にただ一つ煙(けむ)を上ぐる吸殻
                          宮 柊二 (コスモス)

山西省で名高い宮柊二の、コスモス創刊号に寄せた昭和28年の歌。それまでの抒情歌の系譜に大きな一石を投じた宮は、後に学生高野公彦の師匠となる。この歌は、まさに吸殻というモノそのものを詠っている。

4句で煙をけむと読ませているところに、ぼくは泣かされる。同じ越後の出身であるから分かるのだが、越後ではけむと言う。それが丁度定型に嵌ったのだ。ただ、煙に巻くという「けむ」もあり、ただ方言であるということでは無さそうであるが。

この1首は、ヌーベルバーグと言うより、その前の例えば、エイゼンシュタインのモンタージュを始めとする映画理論により一シーンを見ているようだ。

  次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く
                          奥村 晃作 (コスモス)

これは人をあたかも物のように見て、人そのものを詠った歌だ。時代を今に直すと、こうも変わるものかと思うほど変わる。もはやヌーベルバーグやモンタージュのような映像的なインパクトはやってこない。理由やものの見方といった、より観念的なモノが先行している感じがする。人の情景を詠っているのに、映像喚起力は、宮柊二の歌に比べると明らかに希薄だ。

  終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて
                          穂村 弘 (歌集 シンジケート)

穂村弘の処女歌集から。これも、確かに<降りますランプ>という物そのものを卓抜に詠っている。この歌は、映像もくっきりしており、カラーで瞬時に映像が喚起されるように装置が配備されている。と同時に、取り囲まれて、というちょっと人の思いつかない把握のゆえに、物と人が象徴的に対比させられている、と読者に感じさせる。そういう観念性も併せ持つ。

この意味で、奥村の歌よりも一歩、物そのものを詠うという世界へ踏み込んでいる。

  そのしつぽじやまな感じの犬きたり欄干沿ひを引かれて行くも
                          小池 光 (歌集 時のめぐりに)

先に引いた穂村弘の歌のように、際立った映像喚起力があるわけではない。奥村のような、理由を叙述してある種の観念性を際立たせる、というのでもない。しかし、この歌は確かに犬というモノそのものを鋭く詠っている。それは、犬の属性表現からやってくる。「そのしつぽじやまな感じの犬」という、普通でありながら極めて個性的な、犬の属性についての表現によって、犬そのものの存在の1局面を、提示している。

  沈丁花なまなま薫るよるのみち他人の家の生け垣に沿ふ

同じく小池光、『時のめぐりに』から。生け垣の属性を、はっとする表現によって言い当て、生け垣という物そのものを鋭く詠っている。 つまり、「他人の家の生け垣」という、当たり前すぎてだれも表現に使わないような言い方であるゆえに、言われてみると全く意表を突かれ、はっとする新鮮さがある。物の存在の1局面を、見事に表現している。 

物そのものを詠うとは、作者の数だけ、まだまだ手法も技法も開拓する要素があるのかもしれない。映画や、舞台や、俳句も、散文も含めて、表現であるかぎり、相互に交差する部分がある。その夫々の場面における、「物そのものを詠う・表現する」という課題に、つねに興味をそそられのだ。

物そのものを詠う、というテーマは確かに存在するし、短歌と言う極めて短い詩形であるがゆえに、そのテーマが一層生きるとも思う。
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by Achitetsu | 2008-09-28 12:58 | 短歌論
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