カテゴリ:歌集評( 4 )

Book Review

奥村晃作歌集『空と自動車』

うまい歌のとても少ない歌集である。
つまり、奥村晃作は決して歌はうまくない。
では、下手かと言うと、一言では言えない。

つまり、上手く書くことを嫌っている節がある。そうして、長い間書いているうちに上手く書くことも、もはやできなくなってしまったのである。言わばヘタウマである。確かにヘタウマという行き方はある。マンガではそれで一家を成した作家も多い。

ヘタウマ路線をゆくうちに、開き直ってただごと歌、なんて旗印を立てたのがマイナスに働いたということであろう。この歌集で見る限り歌に深化と進歩があまりない。ただ、いくつかの歌が矢場で極くまれに的の真ん中を射るように詠われてきた、というのが正確な言い方かもしれない。

  次々に走り過ぎゆく自動車の運転する人みな前を向く

発見や認識の歌というより、「そう言われればそうだ歌」ではある。これは、有名な歌である。次の歌などは、確かに人の歌わない見方を詠ったところに意味がある。

  とべら咲き車輪梅咲く岩鼻に重さ六トンの柊二歌碑立てり

もちろん師匠である宮柊二の歌碑であるが、それを重さ六トンと持ってくるのはなかなか非凡だ。歌碑はおおよそ尊敬・畏敬の対象とみるところを、重さで見るところがよい。

  どこまでが空かと思い 結局は 地上スレスレまで空である

凡作の山のなかで、ふっとこんな凄い歌が出てくる。まあ、ものごとは紙一重です。これはすばらしく面白い把握だ。しかし、これを自分で認識の歌だなどと言うから、せっかくの歌に余計な評価が入る。そして作者自身はといえば、不満も出る。

  「奥村はふびんな奴だ」その歌の「ただごと歌」が無視同然で

自分の不遇を戯画化して書いているのであるが、本音でもあるわけだ。しかしこれは発見だという歌もたしかにある。次の歌は、あまり省みられていない歌であるが、とてもいい。

  轢かるると見えしわが影自動車の車体に窓に立ち上がりたり

地面にある影が轢かれると思った瞬間、その影が敏捷に立ち上がる様が速くて、歌を読んでも一瞬とまどうほどだ。それが無駄なく、うまく単純化されている。
次の歌でもそうだが、初期の頃は気づきの歌を丁寧に詠んでいる。

  真面目過ぎる「過ぎる」部分が駄目ならむ真面目自体(そのもの)はそれで佳(よ)しとして

これらの歌の面白みを、周りの評価によって気をよくし、それ以上深化しなかったというところに、本人の思う今日の不遇があるのだと思う。そうして万葉集第一歌の藤原鎌足のように、自画自賛の世界を引っ張り出してくる。

  われはもや「わが歌」得たりひとみなの得がたくあらん「わが歌」得たり

短歌には、楽しみの代わりに安住はない。不幸にしてということだろうと思う。自分で自分にレッテルを貼って、安住している場合じゃないぞ、奥村!
歌に好意を持ったので書いているわけであるが、以上が歌集評であると同時に、わたくしの奥村晃作論である。
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by Achitetsu | 2008-10-25 16:54 | 歌集評

Book Review

『おのずからの世界』 加藤克己

歌人と宗教家は長生きすると言ったのは誰か。そして、この本にその秘密が隠されている。
加藤克己は、年々高齢化する現代日本の歌人群の星であろう。なんと言っても明るい。大正四年に生まれ、戦中から敗戦までの十年間を二十代として過している。しかし、戦争にまつわる歌人達の歌を論評する姿勢には浮世離れしたものがある。その確信犯的な明るさが、長寿の星たる所以だ。
加藤のモダニズムの本質は実は堀口大学訳の西洋詩、西脇順三郎や滝口修造らのシュールリアリズム理論から来ていることが語られる。そして近藤芳美や山本友一らと戦後逸早く「新歌人集団」を結成することになる。そのような経緯や日々の思いが随談の形で語られる。
加藤の妻を詠った挽歌がある。

  どの部屋を歩いてみてもどこにもいないおーいと呼んでも答えてくれない

加藤克己の足跡を知る格好の一冊である。

(角川書店 〒102-8078 東京都千代田区富士見2-13-3 電話03-3817-8536 定価2381円<税別>)     
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by Achitetsu | 2008-09-28 13:13 | 歌集評

Book Review

『大正歌壇史私稿』 来嶋靖生 

 一気に読んでしまった。凄い本がでたものだ。地味な題名に騙されてはいけない。大正歌壇の濃密さは現歌壇の比ではない。その波乱万丈なスペクタクルを来嶋靖生は概観してみせる。節、赤彦、茂吉、白秋、牧水、空穂、夕暮、晶子、迢空、善麿、文明他、書中に出てくる綺羅星のような歌人群を、まるで天井桟敷に座って、リアルタイムでその進行を観ている気持ちにさせてくれる。
 著者の明快な方法論にそって編年体で構成されている。中でも大正十二年の関東大震災に際しての歌人達の歌を「これらの歌の迫力は近代短歌半世紀の到達点をしめすといってよい。」と書き、詳細に採り上げている。当時の結社流派により、こうも優劣があるものかと、平成のぼくらの目からは見える。
 歌誌から歌集に纏める迄に、大正歌人がいかに厳しく推敲に心を砕いたか、厳選したか、その実例を豊富に掲載して、まことに示唆に富む。また歌壇の論争史にも触れ、歌人の恋愛、離合集散にも触れている。

(ゆまに書房 〒101-0047 東京都千代田区内神田二-七-六 電話03-5296-0491 定価2500円<税別>)     
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by Achitetsu | 2008-09-03 16:46 | 歌集評

斎藤茂吉 歌集「白桃」 1

歌集「白桃」は、斎藤茂吉の第五歌集である。

昭和8年から9年にかけて詠まれた1017首が収められている。茂吉52歳、53歳に当たる。
年ごろがおよそ似通って居るゆえに、ある種親近感をもって、今回再び読んでみたのであった。

1017首という大部の歌集である。えんえんと写生の歌がつづく。記録としてとどめておく歌というほどのものも多い。さらっと読むほかない歌も多い。つまり、取り上げて読後感を表現したいと思わせる歌は限られている、というのが正直な印象である。それはなぜであろうか?

私には、作品に内在する「吾」「わたし」のありかたと深くかかわっているように思われる。
例えばこんな作品がある。

 とことはの力を秘めてかぎろひの立ちたる海に波しづまりぬ

格調高い歌。しかし、わたしには結句の「波しづまりぬ」と言っている作者の客観的な意識が、けっきょくはのんびりしていると感じられてしまう。写生歌と言えども、作者の新鮮な意識、生きている証明としての意識がそこに詠われていないと、わたしにはもはや感動のある歌とは思えない。つまり、自我意識がのんびりしている歌、そんなふうに感じられ物足りないのである。
言葉としてみると、非の打ち所のない歌であってもである。

ただこれだけの数の歌がありながら、駄作がない。下手な歌がない。それは、言葉がとことん吟味されているゆえであり、茂吉の天才的な言葉に対する感覚のゆえであろう。驚くべきことであって、わたしには奇跡のようなものだ。どんなに歌の数が多かろうと、茂吉は自信を持って提出しているのであろうし、その雰囲気がある。

面白い歌、見所のある歌について、茂吉自身が巻末の後記で記している。
「漫然と気づいたものにこのやうな歌もあり、従来の歌に比して幾らか注意せらるべきものともおもふが、併しこれとても時がもつと経つて見なければならない。」
そう書いて、茂吉自身が後記に掲載した歌が10首ある。それらは、私自身も読みながら注意した歌であり、またその多くは土屋文明編「斎藤茂吉短歌合評」に取り上げられている歌でもあった。

 民族のエミグラチオはいにしへも国のさかひをつひに越えにき

延々と続く自然詠、写生の歌のなかで、この歌は独特の光を放っている。エミグラチオ、すなわちイミグレイション、移民である。時代は満州問題を白眉とする世相であった。
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by Achitetsu | 2007-10-24 07:32 | 歌集評