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Book Review

『おのずからの世界』 加藤克己

歌人と宗教家は長生きすると言ったのは誰か。そして、この本にその秘密が隠されている。
加藤克己は、年々高齢化する現代日本の歌人群の星であろう。なんと言っても明るい。大正四年に生まれ、戦中から敗戦までの十年間を二十代として過している。しかし、戦争にまつわる歌人達の歌を論評する姿勢には浮世離れしたものがある。その確信犯的な明るさが、長寿の星たる所以だ。
加藤のモダニズムの本質は実は堀口大学訳の西洋詩、西脇順三郎や滝口修造らのシュールリアリズム理論から来ていることが語られる。そして近藤芳美や山本友一らと戦後逸早く「新歌人集団」を結成することになる。そのような経緯や日々の思いが随談の形で語られる。
加藤の妻を詠った挽歌がある。

  どの部屋を歩いてみてもどこにもいないおーいと呼んでも答えてくれない

加藤克己の足跡を知る格好の一冊である。

(角川書店 〒102-8078 東京都千代田区富士見2-13-3 電話03-3817-8536 定価2381円<税別>)     
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by Achitetsu | 2008-09-28 13:13 | 歌集評

物そのものを詠う

物そのものを詠う、という魅惑的な言葉を考える。

ただその物を謂うだけでは、小説の1シーンの説明文になってしまうけれど、その物を
読者の心の中で一瞬輝かせる表現があるはずだと思う。そのためには、そこに象徴としてモノそのものに迫る言葉がなければならない。でなければ、「物そのものを詠う」という世界へは近づけない気がする。

では、象徴とはなにか。

  家裏に立てて忘られて梯子あり銀河は一夜その上に輝(て)る
                          高野 公彦 (歌集 汽水の光)

立てられている梯子を詠うのがすごい。高野公彦は、この歌を作ったあと、自身の所属結社のコスモス賞を受賞する。梯子に銀河が来て、梯子というモノは確かに象徴的なナニモノかになった。物そのものを詠って、物が象徴として光っている。

  天泣(てんきふ)のひかる昼すぎ公園にベビーカーひとつありて人ゐず
                          高野 公彦 (歌集 天泣)

ベビーカーそのものをこれだけ詠った歌はほかに見ない。フェリーニやアントニオーニを初めとする、イタリアのヌーベルバーグ以降の監督にこの表現手法をみる。不在、空白、間、飛躍という意識的な観念を映像の世界に持ち込んで表現したのだ。もはや懐かしい話だけれど、有形無形にぼくらは大きな影響を受けている。高野のこの歌もまさにそうだと思う。

  あはあはと陽当る午後の灰皿にただ一つ煙(けむ)を上ぐる吸殻
                          宮 柊二 (コスモス)

山西省で名高い宮柊二の、コスモス創刊号に寄せた昭和28年の歌。それまでの抒情歌の系譜に大きな一石を投じた宮は、後に学生高野公彦の師匠となる。この歌は、まさに吸殻というモノそのものを詠っている。

4句で煙をけむと読ませているところに、ぼくは泣かされる。同じ越後の出身であるから分かるのだが、越後ではけむと言う。それが丁度定型に嵌ったのだ。ただ、煙に巻くという「けむ」もあり、ただ方言であるということでは無さそうであるが。

この1首は、ヌーベルバーグと言うより、その前の例えば、エイゼンシュタインのモンタージュを始めとする映画理論により一シーンを見ているようだ。

  次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く
                          奥村 晃作 (コスモス)

これは人をあたかも物のように見て、人そのものを詠った歌だ。時代を今に直すと、こうも変わるものかと思うほど変わる。もはやヌーベルバーグやモンタージュのような映像的なインパクトはやってこない。理由やものの見方といった、より観念的なモノが先行している感じがする。人の情景を詠っているのに、映像喚起力は、宮柊二の歌に比べると明らかに希薄だ。

  終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて
                          穂村 弘 (歌集 シンジケート)

穂村弘の処女歌集から。これも、確かに<降りますランプ>という物そのものを卓抜に詠っている。この歌は、映像もくっきりしており、カラーで瞬時に映像が喚起されるように装置が配備されている。と同時に、取り囲まれて、というちょっと人の思いつかない把握のゆえに、物と人が象徴的に対比させられている、と読者に感じさせる。そういう観念性も併せ持つ。

この意味で、奥村の歌よりも一歩、物そのものを詠うという世界へ踏み込んでいる。

  そのしつぽじやまな感じの犬きたり欄干沿ひを引かれて行くも
                          小池 光 (歌集 時のめぐりに)

先に引いた穂村弘の歌のように、際立った映像喚起力があるわけではない。奥村のような、理由を叙述してある種の観念性を際立たせる、というのでもない。しかし、この歌は確かに犬というモノそのものを鋭く詠っている。それは、犬の属性表現からやってくる。「そのしつぽじやまな感じの犬」という、普通でありながら極めて個性的な、犬の属性についての表現によって、犬そのものの存在の1局面を、提示している。

  沈丁花なまなま薫るよるのみち他人の家の生け垣に沿ふ

同じく小池光、『時のめぐりに』から。生け垣の属性を、はっとする表現によって言い当て、生け垣という物そのものを鋭く詠っている。 つまり、「他人の家の生け垣」という、当たり前すぎてだれも表現に使わないような言い方であるゆえに、言われてみると全く意表を突かれ、はっとする新鮮さがある。物の存在の1局面を、見事に表現している。 

物そのものを詠うとは、作者の数だけ、まだまだ手法も技法も開拓する要素があるのかもしれない。映画や、舞台や、俳句も、散文も含めて、表現であるかぎり、相互に交差する部分がある。その夫々の場面における、「物そのものを詠う・表現する」という課題に、つねに興味をそそられのだ。

物そのものを詠う、というテーマは確かに存在するし、短歌と言う極めて短い詩形であるがゆえに、そのテーマが一層生きるとも思う。
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by Achitetsu | 2008-09-28 12:58 | 短歌論

短歌に人名を詠みこむ

短歌人2008年9月号の酒井佑子さんの歌のなかに、人名が読み込まれており、短歌の中での人の名について考えさせられた。 
それはつまり、リアリティーの結晶としての人名の詠みこみである。 無論、その使い方が卓抜でなければならない。 この歌における人名の果たす役は極めて大きい。 卓抜であり、感動的だ。

  SEXといふことをしてみたかつたと直子言ひきその四十歳の死の七日前
                            酒井 佑子

人名で即座に思い出すのは、斎藤茂吉のヒトラーの名前を読み込んだ歌であるが、たしか、メンデルスゾーンを詠み込んだ歌があったはずだと思い、調べてみる。

  海の彼岸より通信あり砲身に鋳られて無くなりしメンデルスゾーン
                            斎藤 茂吉 (歌集寒雲)

昭和12年に詠まれた歌である、当時のドイツは隣国フランスの強大な軍事力に比して、いまだ貧弱な軍隊であって、猛烈な勢いで再軍備化を図っていた。 準備万端整ったとしてこの歌の2年後にポーランドに侵攻。第二次世界大戦の火蓋を切って落すのであった。
このメンデルスゾーン像を、茂吉は明らかに留学中に見たのであろう。 リアリティーがある。

人名でも、作者自身の名を詠み込むこともある。 短歌人若手の一人、鶴田伊津さんの瑞々しい歌から。

  憂鬱に傾く今日の鶴田伊津ひしゃくで掬うように連れ出す
                          鶴田 伊津 (歌集百年の眠り)

この歌は忘れがたい。 一度は自身の名を詠みこむのもいいと、この歌を読んで以来思ってきたものだ。 そこで、今月本当に自分の名を詠みこんでみたのである。 同じく短歌人9月号より。

  巻物を口にくはへて消えなむと印を結びし長谷川知哲
                          長谷川 知哲 

歌における人名について書いていたら、まさに同時に小池光の「短歌人物誌ー歌人3」にあった。 角川短歌9月号に連載されている、最終回の文章である。

斎藤茂吉、中島栄一、大島史洋、河野愛子、塚本邦雄、佐佐木幸綱、花山多佳子の歌を引いて、歌の中の人物名とそのリアルさを解説している。 存命の歌人に対しては、かなり挨拶文の意味合いもあって、その場を利用しているなという気もしたが、小池さんの文はいつも面白い。

名前を出すという直截な技法は、高い歌力に裏打ちされなければ、全くの失敗に陥るおそれもあるが、真情のあるかぎり、その直裁さが自ずから力を発するというのか、迫力満点である。

小池さんの一文に一言付け加えるとすれば、斎藤茂吉と中島栄一を結ぶ、間の土屋文明の歌であろう。

  朝々に霜にうたるる水芥子となりの兎と土屋とが食ふ
                        土屋 文明 (歌集 山下水)

文明は、戦争末期昭和20年5月末に、空襲によって自宅が消失する。6月初めに群馬県吾妻郡川戸に疎開する。 そこで26年11月まで食料事情の極めて厳しい疎開生活をする。 これは文明一家にかぎったことではなく、日本人全員がそうであった時代だ。 一握りの山林を借り受けて切り開き畑にする。山の斜面を堆肥を担いで畑に撒きにゆく。 野草・山草は貴重な食料であった。あるとき、山を流れる清水に偶然水芥子(みずがらし)を見つけるのである。 それをあちこちの水中に分散させて、殖やそうとする。 これがクレソンである。 さすがに植物に詳しい文明である。当時クレソンを知る人は少ない。 「兎と土屋とが食う」という歌の背景である。

歌集「山下水」は、疎開のうち、戦後3年間を詠った歌集である。 

  ツチヤクンクウフクと鳴きし山鳩はこぞのこと今はこゑ遠し

飢餓の恐怖から離れて、余裕を持つことの出来た僥倖。 そんなこころもちが表れた歌である。「こぞのこと」であるから、去年の空腹を回想している。 堅物と思われている文明にこんな歌があるとは、読者も驚くだろうか。この歌は、疎開時代の代表歌の一つとして人口に膾炙している。人名の詠みこみに、こんな方法があったかと瞠目させられる。

時代を現代に移すとこんな歌がある。

  佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子をらず
                       小池 光 (歌集 日々の思い出)

このくらい凄い歌だと、やはりセンセーショナルになる。 人名の歌を論じるときには外すことができない。 この人物が実在の生徒かどうか、だれでも即座に考える。 しかし、いろいろ差しさわりがあろうにと、いくつかのことをだれでも瞬時に考える。 その実在か虚構かという境界を孕んだまま詠われているところが、また読者のイメージを否応なく広げる。 そういう歌である。歌は旧かなでも、歌集名は新かなで書くのか、などと妙なところにもまた感心する。

人名とリアリティー、これは歌の中に人名を見る度に思うテーマである。
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by Achitetsu | 2008-09-10 23:50 | 短歌論

Book Review

『大正歌壇史私稿』 来嶋靖生 

 一気に読んでしまった。凄い本がでたものだ。地味な題名に騙されてはいけない。大正歌壇の濃密さは現歌壇の比ではない。その波乱万丈なスペクタクルを来嶋靖生は概観してみせる。節、赤彦、茂吉、白秋、牧水、空穂、夕暮、晶子、迢空、善麿、文明他、書中に出てくる綺羅星のような歌人群を、まるで天井桟敷に座って、リアルタイムでその進行を観ている気持ちにさせてくれる。
 著者の明快な方法論にそって編年体で構成されている。中でも大正十二年の関東大震災に際しての歌人達の歌を「これらの歌の迫力は近代短歌半世紀の到達点をしめすといってよい。」と書き、詳細に採り上げている。当時の結社流派により、こうも優劣があるものかと、平成のぼくらの目からは見える。
 歌誌から歌集に纏める迄に、大正歌人がいかに厳しく推敲に心を砕いたか、厳選したか、その実例を豊富に掲載して、まことに示唆に富む。また歌壇の論争史にも触れ、歌人の恋愛、離合集散にも触れている。

(ゆまに書房 〒101-0047 東京都千代田区内神田二-七-六 電話03-5296-0491 定価2500円<税別>)     
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by Achitetsu | 2008-09-03 16:46 | 歌集評