短歌とライブ2

短歌がライブとして成立するのか?

音楽と共に短歌を朗読することが、入場料をもらうライブとして成立するのか?それが、私の最初の自問であった。しかし、その自問も、初ライブに向けて行ったリハーサルの中で氷解して行った。

様々なアジャストメントを導入した。

他人の短歌ライブというものを一度も見たことがないのであるから、(そんな活動をしている歌人が居るかどうかも無知であって)挑戦である。まづ分かったのは、書き言葉としての短歌をそのまますべて朗読出来るものではない、という発見であった。

1首を2回読むのをライブの基本フォーマットとしたのであるが、プログラムとして書かれた短歌を渡すことはしないと決めていた。聞き手は2回だけ聞いて、理解するのである。歌集を手に持つこととは全く違うことをやってみたかった。

もうひとつは、聴衆はほとんどが短歌に始めて触れる人達であるという設定である。歌人の友人達には限られた人にしか知らせなかった。

このような条件のなかで、例えば日本語の特性として、音の同じ言葉がある。
「手に持つ」と「手荷物」は同じ音であって、前後の脈絡で聞き分けることになる。

読めば一目瞭然のことも、聞いただけでは分からないものは多い。
「ろうかいをさらすがごとき」
と聞いて、
「老醜をさらすがごとき」(注1)
とはなかなか分からない。

ルビを振るような難解な言葉は、聴き言葉では一層難しい。
「かわほりのごときがばっこし・・」
この句を聞いて分かる人は少ない。
かわほりは蝙蝠(コウモリ)の古語である。
「蝙蝠のごときが跋扈し・・」(注2)

古い時代の和歌は、極めて分かりやすい言葉で歌われていた。万葉集がその代表である。
その時代は、朗詠してそれを聴く、そういう文化が普通であったと考えられる。

現代は、歌集を読むという時代になっている。
そのなかで、聴いて分かる短歌を詠んでみたいと思ったのであった。
それも、短歌に触れたことの無い人たちを対向衆としてである。


(注1)
老醜をさらすがごとき文章を綴りて元校長はしたり顔なり
                         西勝 洋一 (短歌人)
(注2)
蝙蝠のごときが跋扈しパラソルとかろく弾みて呼ぶにはとほし
                         蒔田 さくら子 (短歌人)
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by Achitetsu | 2007-10-20 09:37 | 短歌論
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