短歌の国際化と題し、日本歌人クラブ国際部が主催して、河野裕子さん、アメリア・フィールデンさんを招き、生沼義朗さんの総合司会、間ルリさんの司会で講演会が開かれた。 オーストラリア生まれのフィールデンさんは、自身の5冊の英語歌集と、八冊の英訳歌集を出されている。そのなかに、河野さんの歌集「日付のある歌」がある。当日はこの歌集を中心に話が進んだ。その中で特に話題になった歌を参考にしながら、英語短歌の今に迫ってみたい。 河野さんの1行書きの短歌は、フィールデンさんによって5行書きに改められている。まず、その翻訳をみてみよう。 一語一語英語に移し変へられて屈伸やはらかき鉛筆の文字 one by one my words are transformed into English with the gentle flexing of her penciled letters フィールデンさんによると、5行にした上で、それぞれのフレーズを短・長・短・長・長になるように意識をしているとのことであった。この1首は、その意味では見事に57577に代わる長短のアレンジメントが生かされたものである。 これは、フィールデンさんが河野さんを日本に訪ね、その場で歌の翻訳の鉛筆を握っている光景が詠われている。意味は過不足のないシンプルな言葉で翻訳されていて好感をもつ。では、語順はどうか。句に分けてみてみよう。 ①一語一語/②英語に移し/③変へられて/④屈伸やはらかき/⑤鉛筆の文字 ①one by one ③my words are transformed ②into English ④with the gentle flexing ⑤of her penciled letters 原文の2句3句を、英語では逆転しているが、これは英文を読み下す上で自然な順序であり、スムーズである。他の初句、4句、結句は原文と同じであり、翻訳の妙が発揮されている。 この歌を最初に取り上げたのは、まさに長短といい、言葉の斡旋といい、句順といい、この英訳歌集のなかでも、短歌の翻訳という作業のひとつのレベルを、端的に表していると考えるからである。 では、おおよそこの歌のように規則的な翻訳転換ができるのだろうか。次の1首をみてみたい。日本語英語、それぞれを鑑賞していただくために、まずは余分なものは付けない。 三首目になづみをりしが目をあげてEVERがいい詩的だといふ lifting her eyes which had been fixed on the third tanka, she says ‘ “ever” is better, more poetic’ なづむとあるところをfixedとしたのは賛否のあるところであろうが、一層単純化したとも言えよう。訳者の醸し出す解釈上の緊張感は、なみなみならぬ力量を感じさせる。 英語の下の句をみると、実はこの1首は複雑な構造を持つものであることが分かる。つまり、フィールデンさんが三首目を見て言ったことが、河野さんによって日本語に翻訳され、短歌となっているのである。それを再度、フィールデンさんが英語の翻訳をしている。 つまり、英訳の下の句のコーテーションマーク(かぎ括弧)の中は、最初にフィールデンさんが発した言葉を指し、もともとの真意を指している。しかし、この併記された日英の1首を見るときに、ぼくらは当然日本語をもとに英語の訳を批評的な目で見るのである。 キャッチボールのやうなこの構造に気づく前に、初見の際のぼくの印象は、EVERがいい詩的だといふ、はEVER is good. It’s poetic. であった。 betterには違和感があった。原作には比較対照のニュアンスはそれほど強くない。むしろ、EVERがいい、は一つを選んだ気持ちが表れていよう。詩的だ、というのも比較は大きな役割を持たされてはいない。軽く断定するほどの気持ちだとすると、it’s poetic. が適訳かもしてぬ。 この時点で、ぼくが言葉に幾らかこだわったのは、翻訳であるかぎり、言葉の理解、言葉の質が大きな役割を果たすことを再確認しておきたかったからである。 つまり、英語を母国語としないものが十全な鑑賞に至りがたいことは、容易に理解できる。英語自体を、ネイティブのように文化背景を含めて理解できていない自分が、ネイティブのようには鑑賞できない。勿論、ネイティブと言えども、文学や詩に造詣が深いのか、興味があるのかによって、違いが出てくるわけで、その意味では、ぼくらにも分かる範囲で鑑賞し楽しむ権利が充分ある。以上を踏まえた上で今一度この歌を技法の上からみたみたい。 ①三首目に/②なづみをりしが/③目をあげて/④EVERがいい/⑤詩的だといふ ③lifting her eyes ②which had been fixed ①on the third tanka, ④she says ‘ “ever” ⑤is better, more poetic’ 以上のように、上句下句の区別は元歌と同じである。意味上から言えば下句は she says “ever is better, more poetic” となるのであろうが、フィールデンさんの定型観としての下句「長・長」を実現するために、彼女は句跨りを選んだのである。 また上句の終わりには文法上必要不可欠ではないコンマが付けられている。これは、元歌の切れとまではいかないが、目をあげての後の小休止を表したものであると思う。 切れに関して言えば、次の歌を見てみたい。 君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠る hitting you hitting the kids my hand feels on fire – frantically loosening my hair I go to bed 元歌の3句切れを、英語ではハイフォンで明らかに表している。 ここで、先に結論めいたことを言えば、英語の短歌は、一人の優れた訳者を持つかどうかに関わらず、広く根付くかどうかは短歌の技法そのものが確立されるかどうかに懸かっている、というのが今回フィールデンさんの翻訳をみた私の感想である。英語の短詩の場合、ただ短い詩でよければ、言葉が優れている限り短歌である必然性はないわけで、短歌と呼ぶ理由も無い。5行短詩とでも言えば新しいジャンルの確立も可能だ。しかし、短歌の定型が持つ時代を超えた求心力を、英語に生かせれば英語短歌の確立も可能だと思うのである。それには中心となる一定の定型技法の確立が不可欠のように思われる。 短歌の英訳上の技法としてフィールデンさんが採用しているものをここでまとめてみれば、 1.句ごとの5行詩とする。 2.上句下句の区別をつける。 3.初句から、短・長・短・長・長の英語句を目安とする。 4.元歌にある句間の小休止はコンマで表す。 5.元歌にある句切れはハイフォンで表す。 このようになろうか。小休止と句切れについて、いま少し考えてみたい。 日本語の短歌の不思議な魅力は、読み下したときの勢い、呼吸、連続不連続を支配する小休止や切れ、そこに意味が重なり、離れ、絡み合って、読者の情緒を揺さぶり、感覚を覚醒させ、驚きを生み、しみじみとした共感を生むところにあろう。それが韻律の力であろう。 私の感覚では、フィールデンさんが苦心の末に作り上げた技法のうち、4番5番、つまり小休止、句切れがこれからの鍵を握っているように感じられる。 つまり、短歌の豊かな音韻をいかに翻案するか、それが難しいのである。 次の歌をみてみたい。 昨日より仕事持ち越しこの人は冷えパック貼りてふらふら歩く this man who has work postponed from yesterday, cook-pack affixed staggers around 元歌には、初句のあとにゆったりとした小休止があり、3句のあとにもはっきりとした小休止がある。この2箇所でそれぞれ1拍入れることが、この歌に不可欠の魅力を与えている。つまり韻律のよさである。試しに2箇所とも休止なしで読んでみれば、その理由は明白であろう。つまり、メリハリ、歌の緩急が無くなって意味自体も浅薄になってしまうのである。韻律と、読者の受け取る意味の価値は密接に結びついている。 フィールデンさんが英語を実際に朗読したときの仕方は、上句3句を一気に読み下して、yesterdayのあとコンマが示すように、若干の休止をし、下句に至って4句のあと、句切れに相当する大休止を入れている。そのあと静かに結句を読んだのである。 日本語の短歌の小休止・句切れは誰が読んでも分かるものであるし、等しくその感覚を共有することができる。英語短歌の場合も、その小休止・句切れの共有が、韻律に相当するものの翻案として、鍵になるのではないだろうか。 フィールデンさん苦心の句切れを表現するハイフォンも、ある歌では的確に付けられ、ある歌では付けられていないという場合がある。有効な技法として是非完成度を高めていただきたいものだ。 君のこゑ聞けどふらふらと海月なり陽あたる遠浅をゆき戻りして I hear your voice but I am a jellyfish wobbling in and out of sunny shoals wobbling = ふらついている よろめいている shoals = 浅瀬 元歌は、初句のあとに小休止、そして3句切れである。英語の場合は2句のbut I amという言い出しが音として魅力的なので、2句に独立させたのであろう。上句下句は分けるという定めを守るとしたら、3句はa wobbling jellyfishとなり4句がin and outと短句になろうか。しかし、破調はどんな定型にもつきものであるし、それはそれで役割がある。要は、英語の定型とでも言うべき一定の規範を如何に作り上げるか、それに懸かっているように思われる。 最後にもう一つ、言葉自体における技法として単純化を挙げてみたい。無駄な言葉、装飾的な言葉、単語自体に語らせようとする目論見、それらを極力廃して単純化することが、英語短歌の短詩としての格調を生むだろうと考える。 次の歌を挙げて最後としたい。 さびしいよ、よよつと言ひて敷居口に片方の踵でバランスを取る I’m so so, lonely! I wail balancing on one heel at the threshold wail = 嘆き悲しむ threshold = 敷居 フィールデンさん訳のうちでも、後々名訳と呼ばれよう。
by Achitetsu
| 2008-05-07 23:04
| 短歌論
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